死産・人工死産

STORY1 娘と出逢えたから分かったこと

プロフィール

S.Sさん、1987年生まれ

夫が韓国人にて現在韓国在住  

第一子、第二子は韓国で出産

インタビュー時:新生児死後から半年 

2017年:第一子出産 

2019年:第二子子宮外妊娠  

2022年:第三子女児を21週 慢性早剥羊水過少症候群※のため自然死産  

#子宮外妊娠 #人工中絶 #第三子#慢性早剥羊水過少症候群 #CAOS #新生児死 #腹痛 #出血 #韓国在中  

STORY 

韓国に移住して5年。  

慣れない環境の中で第三子妊娠。しかし妊娠初期から不安の連続。  

娘と出会えたからこそ自身を見つめ直すきっかけになりました。  

子宮外妊娠で気づいたこと

第一子、第二子は韓国での出産で、第一子の産後直後は韓国独自の産後サポートを利用したためその後の育児や夫婦間がスムーズでした。

韓国は産後ケアを利用する方がほとんどです。自己負担ではありますが、身の回りのことや赤ちゃんの世話をしてくれる「産後調理院」という施設に入院する方法と、自宅に訪問してお手伝いをしてくれるヘルパーを利用する方法があります。  

第一子出産後は、産後調理院へ2週間入院しました。そこでは日本のように積極的な母乳育児というよりも、まずは母親の休息を目的としているので母乳があまりでてこなかった私は、とても救われたというか、ゆっくり休息できました。この入院のお陰でしっかり休息でき、退院後はスムーズに夫と2人で育児に取り組めました。  

しかし、第二子は子宮外妊娠でした。

そのため韓国の病院で手術をしてもらいましたが、その時の病院の対応は、「あっさり」「淡々と」という韓国独特なのか、そこの病院だからかはわかりませんが、心配りがあるわけでもなく流れ作業のように処置が終わってしまい、第二子とのお別れというお別れができずとても悲しかったです。  

その時に気づいたんです。「韓国は赤ちゃんの死に向き合わない文化なのかもしれない」と。

第三子の慢性剥離羊水症候群(CAOS)

その後、コロナ全盛期の2021年夏季、第三子を妊娠。

里帰りのため日本へ帰国するも、出血と腹痛で落ち着かなくなりました。

韓国で第三子を出産したら、産後調理院へは、長男を連れていくことができないこともわかっていたため、第三子の日本での里帰り出産を考えていました。

ただ、日本へ帰国するには妊娠32週目以降になると、搭乗時に医師の診断書や同意書の提出が必要となると知っていたため、妊娠13週頃に日本へ帰国しました。

帰国して隔離中に鮮血の出血があり、すぐに病院へ受診したかったのですがコロナ禍で隔離生活の中だったため、そのまま受診はできませんでした。そこで、保健所に症状を伝え外出許可をもらいました。

病院選びをしている余裕もなく、実家近くの個人経営の産科病院を受診しました。

受診時もおりものシートに少量の出血が続いていましたが、胎児には異常がなく経過観察となりました。

しかし、ある日の晩に生理のような出血がドバッとあり、動揺しました。でも、夜間ということもあり、様子をみて朝方受診しました。

そこでも赤ちゃんは元気でいることがわかり経過観察となりました。

出血があったりなかったり、出血色はピンクや茶色で、バラバラでした。医師からは出血原因不明と説明され、もし鮮血が大量に出た時は総合病院を受診する体制となってました。

しばらくは定期的検査と経過観察が続きました。

妊娠19週目頃、日本での幼稚園の初参観会があり、長男が日本の幼稚園でどんな生活をしているのかも気になっていたため、腹痛があったものの参観へ行きました。

ただ、参観へ行った後に腹痛のレベルが激痛へと変わりました。個人病院での診療では手に負えないとなり総合病院へ転院・入院となりました。  

転院先の医師からは、切迫流産だと伝えられました。

入院での治療を続けていても出血は酷くなるばかりで、夜になると陣痛のような生理痛の痛みが毎日続いてたため、カロナール(解熱鎮痛剤)を内服して痛みをコントロールしてました。

入院12日目に診断名がつきました。医師から「慢性剥離羊水症候群(CAOS)」と告げられました。

羊水がとても少ないこと、万が一出産した場合は妊娠21週の胎児の肺の形成は未熟なため確実に赤ちゃんには障害が残ってしまうということを伝えられました。

これを踏まえた上で治療を「継続するか」それとも「諦めるか」という選択を突きつけられました。

初めて聞く疾患と現在の状況に動揺しました。心の準備もままならないままでした。 

治療を続けるか、それとも諦めるかを夫と話し合いました。韓国で障害のある子どもを育てていくにはとても不安が大きいと考え、諦めることを決めたものの、日本の戸籍には残してあげたいねと考えて、せめて妊娠22週に入ってから出産したいと考えていました。  

韓国にいる夫に自由に連絡ができなかったことが悔しい  

韓国で契約したスマートフォンであったため自由に夫に連絡ができませんでした。総合病院だったため携帯Wi-Fiは持ち込み禁止でした。持続する腹痛で病室からWi-Fiが使用できる場所まで移動することさえ自由にできなかったのもあり、韓国にいる夫に近況を伝えることができなかったことがとても悔しかったです。身体が動く時にまとめて報告していました。日本でスマートフォンを契約しておけば良かったと後悔しています。  

どうしても日本の戸籍に残してあげたいと考えていた矢先  

ただただ冷静な自分がいました。  

妊娠21週の時でした。急に陣痛がきてしまいわからなく頭の中が真っ白のまま出産となってしまいました。出産は1時間ほどでした。出産が終えると涙崩れる?こともなく冷静に状況を受け入れている自分がいました。娘は産まれてから30分後に息を引き取りました。  

入院中は病院の看護師(助産師)さんのおかげで手型や足型、沐浴をしてもらえました。  

出産後は、WiFiが使用できる場所の近くの病室になったため、夫に娘を出産したことを伝えましたが、何を話したのかは覚えていません。  

妊娠と出産で、貧血症状なかなか改善されず、介助なしでは歩けないほどでした。看護師から「赤ちゃんは元気に産まれてくれた子と同じように接したいと思っています。そのため手型や足型、沐浴も行っても良いですか」と聞いてくれました。自分一人ではできなかったことを看護師がしてくれとてもありがたかったです。退院日に火葬を行いました。  

産後は実家で過ごしていました。そのため長男のお世話はほぼ母や父がしてくれました。韓国にいる夫には娘が亡くなったことを伝えると泣いていたことは覚えていましが、何を話したのか、全く覚えていません。自分を保つための防衛反応だったのかもしれません。  

産後5ヶ月ほど実家で休んでから、韓国へもどりました。  

夫にも娘に会わせたいと、娘を韓国へ連れて帰る方法を調べました。  

遺骨を海外に持っていくには行先国のルールがあるようですが、韓国に移動の際は「火葬許可証」は必ず持っていくよう伝えられました。機内では手荷物として遺骨を持って行きました。  

産後半年経過した今の気持ちとは  

娘を亡くして、半年経ちますがまだまだ悲しみの中にいます。第三子の妊娠はとても嬉しかったですし、辛かったつわりも乗り越え、幸せな未来を描き娘の誕生を心待ちにしていました。思い描いていた幸せがこんなにも一変してしまうことを知りました。  

死産を経験し、初めて「天使ママ」という言葉も知りました。韓国では「天使=かわいい、愛おしい」などの意味から「私の可愛い赤ちゃん」という意味として使われているため、日本と逆の意味となってしまうので「天使ママ」というワードは日本独自の言い方なんだなと思いました。  

娘が亡くなってからは、時間があればネット検索をしています。そこで天使ママは想像以上にたくさんいらっしゃることに気づき私は一人ではないんだと思えるようになりました。ただ、韓国に移住してまだ5年しか経っておらず、韓国語を思うように話せませんし、韓国で子どもを亡くされた方などのグループや支援団体というものがないか検索していますが、なかなかみつかりません。 韓国にいる義父母も娘についての話題を出してこないので、もしかしたら韓国では子どもの死について話題にしない文化なのかもしれません。そのため、私の気持ちを聞いてくれる人も娘の存在を認めてくれる人もいなく、娘への罪悪感でとても苦しいです。このように気持ちが不安定なため、大切な息子に感情が向かってしまい、またそれも罪悪感を感じています。  

しかしこのような気持ちを抱きながら、池川明先生の胎内記憶にまつわる書物や、ある方に相談したことで亡くなった娘からのメッセージがあることに気づきました。  

胎内記憶の研究者である池川明先生の本を何冊か読みました。そこでは、「赤ちゃんは使命をもってママのところにくる」と知った時は罪悪感しかなかった気持ちが軽くなりました。

娘の経験がなければ自分を見つめることもなかったと思います。娘からのメッセージが無ければ自身の体や気持ちに背を向けて生活していっていたのかもしれません。「ママ、身体大切にね」って、そう娘が教えてくれたように思います。 

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