死産・人工死産

STORY10 死産から4年、新たな気持ちとは。

プロフィール

村田美沙希/1990年生まれ/看護師
インタビュー時:死産後3年11ヶ月 
2019年:第二子(長男)を妊娠39週0日で常位胎盤早期剥離により死産 
2020年4月〜赤ちゃんを亡くされた方のグリーフサポート『なごみ』設立
なごみ公式ホームページ
https://nagomi-greif.amebaownd.com/

死産した当初のこと

妊娠38週6日まではとても順調でした。 
今年4月で死産してからちょうど4年が経ちます。4年経ちますが、当時のことは鮮明に覚えています。 
当時29歳で出産を予定していた私は、年齢的なリスクの心配もなければ、妊娠中に発症しやすいと言われている病気(妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病など)とも無縁のまま臨月を迎えました。 
死産がわかった前日の38週6日は妊婦健診日で、超音波エコーで体重3500gを超える元気な息子の姿を確認していました。NT(ノンストレステスト)も問題ありませんでした。その晩は、息子がお腹の中でとても激しく動き、その激しい胎動のためか胃部不快感を生じていました。「元気、元気。お腹はもう窮屈なのかな、これが後期つわりなのかな」と主人と話していました。 
 翌朝土曜日、いつものように目が覚め主人も子どもまだ寝室にいました。私は朝食の支度や洗濯と普段と変わらない時間を過ごしていました。息子を妊娠中、比較的に朝は胎動が少ない傾向の子でしたが、この日ばかりは朝から胎動がないと感じていました。それにも関わらず、私は、お腹が窮屈で動けないのかな、出産が近いからかなと思い、そのまま家事に戻りました。それこそ、前駆陣痛なのかなと思うような腹痛も起床後からあったので、携帯アプリで胎動カウントをつけていました。 

その時は、息子に異常が起きているとは全く思ってもいなかった

波打つような腹痛、胎動がないことが心配だったため、かかりつけに電話相談をすると助産師が対応してくれました。「村田さんは、経産婦さんなので陣痛の間隔が15分になってから来てください。臨月になると胎動が少なることもあります。胎児が骨盤に頭をはめるので胎動が減ります」と言われ、もう少し自宅で様子見ることにしました。もしかしたら、今日が出産になるのかな、程度しか思っていなく入院準備品の確認や台所の片付けをしていました。 

その後も、波打つ持続する腹痛、感じない胎動に不信に思い、もう一度かかりつけに電話をかけると、「入院の準備をして今から来てください」と告げられ主人と娘と3人で病院へ向かいました。もちろんその時も息子に異変が起きているとは全く考えておらず、ただただ赤ちゃんにやっと会える嬉しさと、出産を間近に控えているソワソワでいっぱいでした。 
 病院へ着くと助産師が車椅子で迎えに来てくれ、すぐに処置室へ誘導してくれました。そこで助産師によって内診が始り子宮口が3cm開いていることを確認してもらいました。その後、処置台を移動し診察室のベッドに横になり助産師が胎児ドップラー(胎児心拍計)で赤ちゃんの心拍を確認してたのですが、なかなか心拍が確認できずにいたので助産師は「私、赤ちゃんに嫌われちゃってるのかな」と話していました。 
 しかし、赤ちゃんの心拍はなかなか確認できなかったため、医師がきてエコーをしてくれました。そこで医師から「赤ちゃんの心臓が止まっているね」と告げられました。 その場が凍りつきました。

死産直後は医師や助産師に怒りが向いていました。その中でも息子の死を受け入れられた理由

緊急帝王切開後、意識が戻ると私は、自然とお腹に手を当てていました。「そっか。私は息子を産んだのか」と自覚した瞬間でした。 
死産と知った前日は健診であったのに、どうして息子は助からなかったのか、健診で見落としがあったのではないか、健診時に何か分かっていたら息子を救えたのではないか。と前日の健診を振り返りスマートフォンで「胎盤剥離、原因、医療ミス、医療訴訟...」などと検索していました。なんとかして息子の死をなかったことにしたかったし、何かの間違い、息子は救えたのではないかと常位胎盤早期剥離の原因追及と、妊娠期間中に予防できたことはなかったのか、これは防げた死だったのではないか...と寝る時間を惜しんで携帯で調べていました。
気持ちを素直に話すことができたのは夫だけでした。そこで、夫に今回のことは、医療ミスではないかと相談しました。息子を救ってくれなかった怒りが抑えきれなくなったために担当の助産師に相談すると、その時は「そうなのですね、他に思っていることはありませんか」と、私の怒りを受け入れてくれる聞き方でした。 

その後、出産を立ち会ってくれた医師が手書きで記入したカルテ(緊急帝王切開中の状況や輸血内容、産後の経過などを記した)を直接私に渡してくれ、手術中のこと、私の命が助かったことが奇跡ということ、赤ちゃんの死は避けられなかったことなどを説明してくれました。 

担当医師の直接の説明もあり、息子の死は救うことができなかった命、避けられない死であったのかと徐々に、受け入れられるようになっていきました。 

しかし、そうと分かっていながらも息子の死の原因検索や常位胎盤早期剥離を経験された方、私と同じような経験の方がどうなったのかなどをずっとネット検索していました。常位胎盤早期剥離経験者のブログ、ピアサポートの掲示板、看護・医学論文を片っ端から読みました。読んでいくと母子共に助かったという方もいれば私のように母体だけが助かったケース、母子ともに亡くなってしまったケースとさまざまであったものの、この疾患は母子ともに救命がとても難しいことを知りました。
担当の助産師は、「今何に悩んでいますか、何に困っていますか」「何かできることはありませんか」と何度も病室に訪問してくれ、気に掛けてくれていました。助産師たちは元気に生まれてきた赤ちゃんの母親と同じように気遣ってくれている様子が伝わってきました。6日間の入院生活中では、担当看護師がほぼ変わることなく2人の助産師でサポートしてくれていました。時にナースコールで呼ぶと別の看護師が来てくれる時もありましたが、息子の話題に触れることもなく用事のみ済ませるのみでした。助産師の担当制という点では、何度も自身の気持ちを伝えずに済んだので、よかったなと感じています。 

入院中は、医師も助産師たも、息子を一人の赤ちゃん(人間)として、元気に生まれてきた赤ちゃんと同じように接してくれました。例えば息子を名前で呼んでくれたり、「足型や手形を一緒に撮ってみませんか?」「授乳の時間なので一緒に母乳をあげてみませんか?」など、元気に生まれてきた赤ちゃんと同じように息子に触れる時間を与えてくれました。私を1人の母親として接してくてれました。とてもありがたかったです。
息子と過ごせる限られた時間の中で、亡くなった息子とたくさん触れ合えたのは助産師たちのお陰だと思っています。
入院6日間で、医師や助産師への怒りが徐々に薄れていき、信頼できるようになたのかなと感じています。 

死産後は引きこもり、孤独、離婚危機に苦しみました

退院後の生活は思い描いていた幸せな家庭とは違い、心身ともに人生のどん底でした。 
自宅で引きこもっていた時間は時間さえあれば泣いていました。また、ネットで「死産、常位胎盤早期剥離、原因…」などと検索していました。なぜ我が子を救えなかったのか、なぜ私たちの子どもでなければならなかったのか、なぜ救ってあげられせなかったのかと、息子の死がどうしても納得できず、自分を責め続けていました。
遺骨をみて話しかけ、「ごめんね。ごめんね」と泣く毎日でした。 
 主人はというと、いつも通りに出勤し残業し、死産前と変わらない生活を送っていました。そんな主人の変わらない生活に「なんで悲しくないのか、なぜ今まで通りの生活ができるのか」という疑問が募るばかりでした。 
私は息子がいなくて寂しくて、悲しくて、悔しくて、泣いているのに、主人は涙ひとつ流しませんでした。 
それからは夫婦間での気持ちのすれ違いが多々あり、喧嘩が耐えませんでしたし、離婚届けを役所に取りに行ったこともありました。 
死産後、4ヶ月くらい一日中泣いていました。しかし毎日涙を流していると、徐々に涙を流す時間が短くなっていき、涙を流さなくても過ごせることに気付くようになりました。長女や夫が帰ってくる頃には気持ちがすっきりしていた自分がいました。 

また、引きこもりの期間に悲嘆や喪失(グリーフ)にまつわ本や論文をたくさん読みました。知識がなかったことで自分や家族を傷つけてしまっていることにも気づけましたし、そこで男性と女性の悲嘆の現れの違いを知らなかった私は後悔をしました。夫は夫なりに頑張ってくれているんだと思えるようになっていきました。 
引きこもっていることや、孤独でいる自分が嫌でしたが、この一人で過ごせた時間、一人で泣けた時間はなくてならない時間であることを「赤ちゃんの死へのまなざし」を読み、救われたような思いでした。 
(赤ちゃんの死へのまなざし:社会から完全にひきこもるというじかんは悲観過程には必要不可欠なプロセス。力がみなぎってくるのを静かに待つじかんは大切な過程) 

死産後4年、今の心境とは 

正直な気持ち、死産してからまだ4年しか経っていないのかという思いです。 
息子の月誕生日や誕生日を迎えるたびに、息子の年を数えています。きっとこれからもずっと息子の誕生日を数えていくんだと思います。 
死産後に何か形見を残したいと主人と考え出会ったのがメモリアルベアです。生まれた時の身長と体重のクマのぬいぐるみです。 
このメモリアルベアですが、日中はリビングに連れていき、夜は家族みんなで同じベッドで寝ています。ぬいぐるみのクマですが、私たちにとっては家族同様です。「〇〇、ただいま〜」「折り紙作ってきたよ」と長女や次女が声をかけていたり、ご飯の時は長女は自分の分を分けてくれたりしています。その姿をみているとまるで本当に生きているかのような感覚にもなりますし、きょうだいとして接してくれていることに感謝しています。 主人は「あれ、また服変わったね」と私が作る洋服に気づいてくれて、家族の中で常に話題に上がり、地上にいなくてもちゃんと私たちの心の中で生きてくれてると実感できることが、私にとっての癒しなのかもしれません。 

赤ちゃんを亡くされた方の支援をしたいと望むようになるまで 

元々、看護師として働いていたこともあり、人と関わる仕事は好きでしたし、私と同じように赤ちゃんを亡くされた方の支援がしたいと思う気持ちがありました。しかし、死産後の1年は何をどのように始めたら良いのかわからず模倣していました。その間、看護師として一度復帰し同時に、グリーフについてもっと学びたい気持ちになりました。そこでグリーフについて学べる民間の資格が日本では当時2ヶ所あり、そのうちの一つの日本グリーフ専門士協会のグリーフ専門士(advance)資格を取得しました。そこでは赤ちゃんを亡くした親のグリーフも学べました。グリーフというものが生活の中で溢れていることにも気づけました。自身の抱えるグリーフを客観的に見ることもできるようにもなりました。 

そんなある日、一冊の本に出会い、私も肌着を作ってみたいなと思うようになりました。それから、小さな赤ちゃんにはどの布を使えば良いのかや着させやすさや、デザイン制にもこだわっていくうちに、どんどん自分がやりたいことが見えてくるようになりました。肌着を作りはじめた頃は友人の助産師が勤務する病院へ寄付をしていました。しかし、当事者の声が届きにくい、もっと必要としている人に届けたいと強く感じたため、2021年から肌着を有償へ変えました。そうすると、思っていたように、肌着を届けた当事者の声を多く聞けるようになりました。その声は、「可愛い肌着をプレゼントできました」「何もやってあげられることができないと思っていましたが、肌着を着せる事ができました」「突然の宣告で動揺していましたが、お話できて出産がんばろうってなりました」などという声が届くようになりました。赤ちゃんを産んだ女性が母として、子どもにしてあげられることを支えられていると感じることができました。それは同時に私のやりがいにもつながっていいると思っています。

赤ちゃんの死についての見方が少しづく変わりつつある社会ではありますが、まだまだタブー視社会なのかなと感じています。その背景には赤ちゃんは元気に生まれてくるという認識が現代では強くなっているからだと思います。だからこそ赤ちゃんを亡くされた当事者の一部の方だけの経験でなく、誰もが知っている常識なこととして認識される社会になって欲しいと願っています。赤ちゃんを亡くすことは、女性なら誰もが経験しうることで、誰でも知っておくべき常識としてに社会に広げていきたい、そんな活動をしていきたいと思っています。

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