新生児死

STORY23 2度の新生児死亡を経験し、助産師の道に進みました。どのような状況でも子どもたちと、その親御さんたちをこれからも応援していきたい。

プロフィール

ゆきさん/1995年生まれ/看護師・助産師(現在NICUに勤務)
2020年5月:第一子の長男を妊娠33週で出産、約2時間後に死亡
2021年7月:第二子の長女を妊娠26週で出産、約2時間後に死亡
インタビュー時:長男を亡くしてから3年11ヶ月、長女を亡くしてから2年9ヶ月

#早期新生児死亡 #新生児死亡 #染色体異常 #SYS症候群 #ダンディーウォーカー症候群 #切迫流産 #頸部浮腫

赤ちゃんに何が起こっているのか全く想像がつきませんでした

第一子の妊娠が分かると、すぐに切迫流産※1と診断されたため、仕事を休み1週間ほど自宅安静しました。その後、切迫流産は免れると、次の健診で、医師から「首の後ろ、浮腫んでる」、「一度大学病院で診てもらった方がいい」、「浮腫があるとね、染色体異常の可能性がある」と言う内容の説明でした。私は正直、「首の浮腫?何それ。聞いたことない。首の浮腫があるとなんなの?染色体異常?え?」とパニック状態になっていました。赤ちゃんに何が起こっているのか全く想像がつかず、戸惑い医師に質問さえもできずにいました。診察後、最短で大学病院の予約を取り帰宅しました。そこからはひたすらネットで検索魔となりました。でも、調べても出てくるのは悪いことばっかり。
その後、大学病院で絨毛検査※2を行いましたが、異常はありませんでした。

※1:切迫流産:引用〉日本産科婦人科学会によると「胎児が子宮内に残っており、流産の一歩手前である状態を「切迫流産」と言います。「切迫流産」は妊娠継続できる可能性があります。切迫流産では根本的な治療はなく、安静が有効との報告もあります。
日本産科婦人科学会・切迫流産とは

※2:絨毛検査:引用〉厚生労働省によると絨毛検査は、妊娠 11~14 週に子宮内穿刺を行い、採取した絨毛組織を用いて胎児の染色体数的異常・構造異常、遺伝子異常等を検査する確定的検査である。
厚生労働省・NIPT 等の出生前検査に関する専門委員会報告書

目の前で息子が蘇生されている姿を見るのが本当に辛かったです

その後の妊娠生活は、不安が残りましたが、絨毛検査で異常がないと言われたため、大丈夫だろうという気持ちもありました。妊娠30週に満たない頃に再び切迫早産の恐れがあったのと、子宮頚管長※3が1cmをきっていると言われたため入院となりました。いつお産になるかわからない状態での入院生活は不安でしたし、ベッドから一歩も動けなかったのは辛かったですね。そんな生活が3週間続き、妊娠33週を迎えたある土曜日、赤ちゃんの心臓の動きが弱くなったため、緊急帝王切開しました。生まれてきた赤ちゃんは、男の子でした。息子は、気道の異常を患っており人工呼吸器を装着するための挿管チューブがなかなか挿入できませんでした。何度も試みてくれましたが、医師から挿管できない状態という説明を受けました。この時、私は「その週数で、挿管ができないということは死んでしまう」ということくらいわかっていました。そのため、帝王切開を終えたばかりの私の隣で、息子が心臓マッサージをされていました。その時の映像は忘れられません。産まれたての小さいからだでよく頑張ってくれていました。小児科の先生が私の元へきて、「息子くん十分頑張ってます。マッサージをしないと心臓が動かない状態です」と言いました。心臓マッサージされている息子をみてるのは辛かったです。もう、今直ぐにでもやめてほしかった。そして私は、「もう(心臓マッサージを)止めてください」とお願いをしました。息子をそこで初めて抱っこし、「よく頑張ったね。ママのこと(帝王切開の処置が終わるまで)待っていてくれたんだね」と声をかけました。小さな小さなからだでしたが、ずっしりと重く感じました。

※3:子宮頚管長:引用〉子宮の入り口の長さを子宮頸管長といいます。子宮頸管長が短いと早産のリスクが高いことが知られています。
国立成育医療研究センター・子宮頸管長

お別れまでにできることは全てやり尽くしました

出産を終えて、すぐきてしまうお別れ。そのお別れまでにできることは全てやりたいと思っていました。こんな息子の可愛い姿を見て触ってできるのは、今だけって思ったんです。そのため、母子同室を希望し抱っこしたりして過ごしました。助産師さんも協力してくれて、沐浴は退院までに2回しました。本来の入院期間よりも3〜4日短くしてもらい、息子と一緒い退院し自宅で3日間、家族3人で過ごしました。自宅ではいつもはベットで寝ていますが、床に布団をひいて息子を真ん中に寝かせ川の字で寝ました。そして、たくさん手形足形を取りました。足形アートも沢山作りました。最初で最後。できることは全てやり尽くしたと思っています。

火葬

そしてお別れの日。朝から私は涙が止まりませんでした。本当ならずっといれるはずなのに。ずっと一緒にいたい。そして、遂に火葬場へ。まさか、自分の息子を先に送り出すなんて思ってもいなかった。火葬される瞬間。あの扉が閉まる瞬間忘れられない。火葬が終わりある程度、お骨は残りました。でも、あの可愛い姿はない。姿が亡くなってしまい悲しみがさらに込み上げてきました。

寂しすぎる産休

火葬が終わり、産休に入るとまた更に寂しさがみしてきました。本当なら育児をしているはずなのに、お世話する赤ちゃんがいない。夜は寝れなくて朝まで起きて、寝くなったら寝る。また目が覚めたら、また泣いてというよう生活の繰り返しでした。「なんで私なんだろう。周りはみんな順調に妊娠して、当たり前のように出産してる。理不尽だなって。」「今まで順調と(医師に)言われ過ごしてきたのに。順調ってなんだったんだろう」。ただ辛さだけが残りました。

友人との関係、退職そして復帰

数名の友達に報告しました。その後からどんどん連絡がなくなり今では全く取らなくなりました。連絡するに自分からは怖い。なぜだろうな。SNSも以前より見なくなりました。幸せな報告(妊娠、出産)や楽しいこと(育児など)それを見ることが辛かったです。ひたすら、同じ境遇の人のブログを読みあさりました。職場の人間関係をどのようにしていけばいいのかわからず、それさえも考えるのが辛く、いっその事誰も知らない所へ行きたいと思い退職を決意しました。その後、転職活動へ。でも、私の中では仕事よりも、「早く妊娠したい」。その一心でした。そのため仕事は頑張りすぎない程度のシフト、労働時間を条件に就職活動をしました。そして、産後8週が終わり、派遣会社に登録し再就職となりました。上司や同期に恵まれ楽しく仕事ができました(その後退職)。

2人目の妊娠

息子を亡くしてから1年が経った頃、2人目を授かりました。息子を亡くしたあの当時みたいに突然泣いたりすることは減りました。ただ、街に出ると妊婦さんや赤ちゃんに出会い、見るととても辛かったです。私と違って当たり前に生まれるんだろうなぁって思ってしまい、羨ましさがありました。
ただ、まさか、2人目も頚部浮腫の指摘を受けました。2度目があるとは思ってもいない現実を突きつけられました。頸部の浮腫を指摘されましが、羊水検査は受けませんでした。絶対に産むと決めて2人目を望みまいた。何がなんでも「産む」というのが旦那と話し合った結果でした。また同じようになってしまったらという不安と、また子どもを失うかもしれないという恐怖に耐えながら、妊娠生活を送っていました。妊娠26週6日の時、突然の腹痛、そして陣痛がきてしまいました。胎動も心拍もあった赤ちゃん(長女)は、緊急帝王切開をして産まれてきてくれました。産まれたら自発呼吸はできないし、心臓は動いていない状態でした。小児科の先生には「お兄ちゃんの時と一緒かもしれないです」と。その瞬間に、覚悟を決めました。またこの子も亡くなってしまうのかと。

遺伝子検査で分かったこと

1人目の絨毛検査で原因が分からなかったため、2人目の遺伝子と私たち夫婦の遺伝子を調べたいと思っていました。子どもを望む私たちにとっては、今後この検査が重要な材料になるかもしれないと望みをかけていました。3年が経ってようやく結果がきました。やはり遺伝子の異常でした。 遺伝子の15番目に異常があり、SYS症候群※4といういことでした。医師からの説明、ネットで調べると、わが子たちに当てはまることばかりの内容でした。これで、少しは前に進めるのかなと安堵しました。

※4:SYS症候群:引用〉神奈川県立こども医療センター によると、Schaaf-Yang 症候群(SYS)は 2013 年に新しく疾患概念が確立した先天性疾患であり、重度知的障害、自 閉症、関節拘縮などを主たる症状とする。
神奈川県立こども医療センター・SYS症候群

助産師という道に進むまで

2度の新生児死亡という経験をし、 辛くて悲しくて死にたいと思う時もありました。早く子どもがほしくて焦る時期もありました。 でもあの時(第一子の長男のとき)に事情を全て理解してくれたある助産師さんのおかげで今の私があると思っています。2人目の妊娠がわかる前からサポートしてくれて、必ず健診にも付き添ってくれ、毎回、不安なことがないかを入念に聞いてくれて最善を尽くしてくれた助産師さんです。以前から助産師の資格も取りたいと思っていましたが、中々前に進めないでいました。でも、その助産師さんが私の背中を押してくれたんです。「助産師になりなよ」って。もちろん、助産師になっても、この悲しみはゼロにはならないけれど、2人の子どもたちも私を応援してくれている気がしました。そして、同じよう苦しんでいる方を支えたいと強く思い、助産師の道を望みました。約1年間の予備校へ行き、助産学校受験し合格。2023年3月、無事に師国家資格を取得しました。現在は、NICU病棟で勤務しています。様々な状況で入院している子どもや親御さんたちと日々関わらせてもらっていて、やりがいを感じています。ただ、悲しい場面ももちろんあります。どのような状況でも、頑張って生きようとしている子どもたちと、その親御さんたちをこれからも応援していきたいです。

子どもを亡くされた方へのメッセージ

これからも(子どもを亡くした)悲しみはなかなか消えることはないと思いますし、どんな時でも思い出すことはあると思います。その度に悲しくなったりして涙が出ると思います。でも、泣いていいです。自分の気持ちに正直になってほしいです。周りの人がまだ泣いてるの?前向きなよという言葉や容赦のない言葉をかけられることがある時もあるかもしれません。でも、そんな言葉に惑わされる必要はないと思います。しんどい時は周りのことは気にせず自分の気持ちに素直になってください。頭ではわかっていても心がついていかないこともあるかもしれません。自分をどうか責めないでください。赤ちゃんはママやパパが嫌いで帰ったわけでもありません。決してあなたは悪くありません。赤ちゃんがその運命を選んであなたのところに来てくれています。

⚠️いのちのSTORYは、当事者の実体験を記しています。そのため、なるべく当事者の言葉をそのまま使用することを重視しています。
⚠️お子さまを亡くされたご家族が、深い悲しみの中、他にお子さまを亡くされたご家族の力になれればという想いから、記事にご協力くださいました。ご家族のご経験やお子さまへの想い・気持ちを守るために、当サイトの内容や画像の無断転載・無断使用は固く禁じております。ご理解いただけますと幸いです

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